旅の記録です。かなり長いので、もしよろしければ、印刷してお読みください。         

            
                             ケニア編  
一、ケニアからの便り                                   
1993年8月25日の昼下がり、僕は成田発モスクワ経由ナイロビ行きアエロフロート・ロシア航空578便に搭乗していた。 日本語、英語そしてロシア語のアナウンスが流れる騒がしい機内のに窓から外を覗くと、離陸をひかえる数台の飛行機が順番にゆっくりと滑走路へと移動していく。そんな見慣れない景色を眺めながら僕はようやく実現した旅に至るまでの経緯を思い出していた。

1990年のある夏の夜、仕事を終え、帰宅した僕が郵便受けに目をやると一枚のポストカードが入っていた。表紙は広大な草原の真ん中で象がたたずんでいる写真だった。
それは一目見てすぐにアフリカの風景だとわかった。「誰からだろう?」と裏をみると差出人は十数年来の知り合いである馬場さんだった。
馬場さんとは僕が小学4年生のとき参加したあるキャンプ活動で出会った。当時大学生だった彼はカウンセラーとして年下の子供たちの面倒を見ていた。
僕は喘息持ちで山を登る時、夜寝る時など咳がとまらずいつも彼を困らせていたがそれでも馬場さんは親身になってやさしく面倒をみてくれ、そんな彼に小さかった僕がなついたのは言うまでもない。

 それ以後会う機会はなかったけれど時折馬場さんは手紙を送ってくれ、大学を卒業後青年海外協力隊の一員としてフィリピンに二年滞在したこと、帰国してからは教師になり大阪の高校で働いていたこと、結婚したことなどその都度知らせてくれた。

「アフリカかあ、旅行でも行ってきたんやろか?」と思ったが読んで驚いた。なんと教師の仕事を辞めてJICAの職員としてケニアに赴任したという。文章は「お金を貯めて遊びにきてや」と言う言葉で締められていた。当時僕はコックとして大阪の都島にある太閤園で働いていて、仕事はとても忙しく充実してはいたが、変化の無い生活が続いていたのでこの葉書には刺激された。久しぶりにTさんに会いたくなった。葉書で見たような野生動物を、大自然をこの目で見てみたい、海外へ出て、人は何を食べているのか自分の目で見てみたい、飛行機とは? 機内食とはどんな物が出るのか? いろいろな思いが頭を駆け巡った。
 「よしアフリカ!、行くぞ」そう決めてはみたが僕は海外はおろか飛行機にも乗ったことがなかったため少し不安になった。それならと以後はケニヤについて調べ、アフリカに関連した話題には常に耳を傾けた。当時の東アフリカはソマリアが内戦で、エチオピアは飢餓で情勢が悪く、両国に面しているケニアは救援物資などが送られる東アフリカの玄関口としてテレビのニュースでよく報道された。

そして本や雑誌などを読んで海外では言葉が身を助けるということを感じた僕は英語の勉強に没頭した。
 ケニヤの公用語はスワヒリ語と英語だが前者はあまりに馴染みが薄く難しそうだったのですこしでも身近な英語に的を絞り出勤前、帰宅後はラジオの英語講座に耳を傾け通勤電車では単語をひたすら覚え続けた。そしてある程度自信がつきようやくお金も貯まって旅行が実現したのはあの葉書を受け取ってから2年後のことだ。

二、初飛行〜旅のはじまり
  公休と有給を使い切り、11日間の旅が始まった。といってもモスクワ、キプロス、イエメン、ケニアと乗り継ぐ北回りのフライトだったため、往復4日間は飛行機と空港の待ち時間で費やす事になっていた。
 「うーん、こんな鉄の固まりが本当に飛ぶんか?」と動揺する僕の気持ちとはうらはらに飛行機は耳をつんざくような爆音をたててスピードを上げ離陸しアッという間に雲の上へ。
 最初の経由地モスクワまで10時間と長いフライトだったが、生まれて初めて観る空からの景色は僕を退屈させなかった。隣に座っていたドイツ在住の日本人音楽家の方が「君は運がいいよ。こんなに天気がよくて海や陸を見渡せるのは珍しい。」と話し掛けてくれた。昼食にはサーモンのムニエル、夜は鴨のテリーヌを食べたが、洋食のコックをしていた僕にはどうやら外国の食事は問題なさそうでほっとした。

三、シュレメチボ空港での終わらない夜
 夕暮れ時のモスクワに到着しトランジットのためいったん飛行機を降り空港ロビーへ。成田と違って照明が薄暗く、フロアの一角にはもう何日もここで寝泊まりしているような風貌の人達が陣取っている。トイレに行ってみると幾つかの便器が壊れ、そのままゴロンと放置されていた。「もし日本だとすぐ修理されているやろうに」とその違いに愕然とした。
 次のフライトまで六時間あったがアフリカに向かう同じ便に乗り合わせていた日本人数人と知り合い、これから始まる旅について話をした。皆旅慣れた人達で、川田さんはインドで赤痢に罹り死にそうになったこと、Bさんはエジプトのとあるバーでビールを注文したが、虫が浮いていたので新しいのと変えてくれと頼んだら、店の主人は「それは虫じゃなくて麦芽だ」と取り合ってくれなかったことなどを話してくれた。ほぼ同じ年代の彼らの話は本当に驚きの連続だ。40代のCさんは趣味で写真を撮り続けていたがアフリカで野生動物を撮影するという夢を実現するためサラリーマンを辞めてきたと言う。皆それぞれいろんな思いを抱いてアフリカを目指して来たのだった。「感動したいなー。」と洩らした川田さんの一言に皆でにっこりうなずきあった。

四、ハプニング
 モスクワを出発しキプロスで飛行機を乗り換えるため3時間、空港のロビーへ。
出発の時間、僕と川田さんははあろうことか行き先の違う飛行機の登場口まで行ってしまった。場内放送が聞きにくいうえ、誘導する係りの人が間違って違う通路へ誘導したらしい。危うく乗り過ごすところだったが必至に空港職員に詰め寄り、予定の便まで連れて行ってもらい事なきをえた。このときも文法はめちゃくちゃだが、英語が役に立った。川田さんが(すごいねー。助かったよ。)といってくれた。
 トランジットを終え、無事離陸。飛行機は横に座席が4列の少し小型のものになった。天井のクーラーから少し水滴が床にポトリ、ポトリと落ちている。夜で暗かったので読書灯をつけようと思ったが電池切れらしくつかない。隣の席の英国人が(ヘイ!ディス・シート・イズ・ブロークン!)と大声でスチュワーデスを呼びながら自分のシートをガタガタ揺らしていたが、僕はこの旅行で初めて飛行機に乗ったので、(あ、飛行機ってよくこんなことあるんだな)と思っていた。
 あとで聞いた話だが、アエロフロート(ロシア航空)の飛行機にはもともとは軍用機だった物を改装して旅客機にしたという機体があるらしく、そういった場合は座席などはあとから取り付けているらしい。しかし軍隊で鍛え上げられたパイロットの腕は一流、ということだった。
 そして2〜3時間後イエメンへ到着したがここで凄まじい光景を目にした。着陸後徒歩で空港ビルへ向かったが、思わず自分の目を疑った。 
 ビルの正面ガラス一面に機関銃で撃ちまくられたような銃痕が生々しく、しかも広範囲に亘って残っていた。これにはさすがに背筋がぞっとした。
 空港の外には建物一つ見つからず、はるか遠くで黒い煙が数本もくもくとあがっているのが見えたが、多分石油を採取しているのだろう。

イエメンでの緊張した2時間のあと機はアフリカ大陸上空へ、そして無事にジョモ・ケニヤッタ空港に着陸した。 入国審査、検疫へ移動しあとは荷物を受け取っていよいよケニアでの一歩を踏み出すだけだ。ところがCさんと僕は止められた。検疫の係員は僕達2人は黄熱病の予防接種をしていないから入国は認められないと言う。確かに僕はアレルギー反応が出たため予防接種ができなかったが、出発前に旅行代理店、大使館に問い合わせた際、ケニア自体は接種を義務付けられていないから指定区域のインド、パキスタンを通過しない北周りの北欧経由なら入国に支障はないとの返答を得ていた。わざわざ遠回りになる北半球からのフライトを選んで来たのもその為だ。
 しばらくしたら責任者と名乗る身長2メートルはありそうなデカイ人が現れ、狭い事務所の様なところに僕らは連れていかれた。「ユー・キャント・エンター」彼はそう繰り返した。僕は「そんなはずはない」と夢中になって接種は必要ないはずだ、と食い下がった。曲がりなりにも英語を話している自分に驚いたがやればできるものだ。しばらくしたら彼は観念したのかなぜか突然「ウェルカム・トゥー・ジ・アワ・カントリー」とあっさり入国を認めてくれた。何かおかしいと思ったので空港のロビーで待っていてくれた馬場さんとの再会を果たした後この事を尋ねてみた。そしてわかったのはこういった場合彼らに現金を渡すと簡単に入国を認めるということだ。国の玄関口である空港の職員が賄賂を要求するとは信じ難いが日本人の常識は通用しないらしい。

  五、ナイロビを歩く
 再会を喜び合い、、早速馬場さんが働いている学校に同行し、職場を隅々まで案内してくれた。日本でいう高専にあたるこの学校は日本政府の援助を受けて立てられたそうで、馬場さんの仕事は教員たちを指導、教育することだ。見学後学校を出て家にむかう車内で馬場さんはアフリカ諸国そして発展途上国の将来について熱心に話してくれた。家に着いて、初めて会った馬場さんの奥さん、それに1歳になる娘さんに挨拶をし、食事へ。意外にもアフリカで最初の夕食は、馬場さんはもちろんの事ナイロビ在住の日本人がよく利用するという寿司屋だった。日本人の板前さんが握った寿司の味は32時間の長旅の疲れを忘れさせてくれた。家に帰りその晩はぐっすり眠った。ケニア滞在中の6日間はこの家に泊めてもらえる事になった。
 赤道直下のアフリカだというのに標高1,700メートルの高地にあるナイロビの夏は涼しく、これは意外だった。
ベッドは蚊よけの網カーテンで囲われていたので、安心してぐっすり眠れた。
   
 翌朝、小鳥たちの鳴き声に起こされた僕は一人で市内のホテルに向かった。この日は飛行機で知り合った川田さんと待ち合わせし、街を観て回る事にしていたからだ。無事川田さんと合流し、まず博物館へ行き鳥・昆虫の標本、原人・恐竜の化石、それぞれの部族の似顔絵、武器などを見て回った。「そういえば人類発祥の土地はアフリカやったな」ということを思い出し、今自分がそこにいることの実感がこみ上げてきて、見る物すべてが新鮮だった。
街での移動は主にバスを利用した。町を走るバスは色とりどりで見ていて楽しい。 どのドライバーも運転が荒く爆音を響かせながら黒煙をあげて猛スピードで走った。あるとき僕達が乗っていたバスが突然急ブレーキをかけた。立っていた子供が倒れそうになったが周りの人が皆手を貸して支えていた。何処の国でもこんな時は万国共通だなと嬉しくなった。
 歩いていると、道端で男性がとうもろこしを焼いて、売っていた。香ばしいにおいに誘われ、これを買って食べたが、日本で食べる物よりあまくとても美味しく感じた。

 
日本のテレビ番組ではケニアというと野生動物ばかりが取り上げられるが、アフリカでも都会はとても発展している。とりわけナイロビは高層ビルが立ち並び、人々はスーツを着て通勤している。東アフリカの玄関口、といわれる所以だ。

 世界中のあらゆる種類の料理も食べられる。僕は滞在時、日本料理店でおそばを食べ、地元のお店で鶏のロースト(日本のブロイラーとは明らかに違い本当にうまい!と思わずうなってしまったほど)に感動し、ホテルのフランス料理店で
フレンチを食べたりしたが、どれも美味だった。(ただ、このときアボガドのサラダを頼んだが、アボガド一個分がスライスされてお皿一面に並べられていたが、これだけは残 してしまった・・・。)
 街を歩いている時大勢の人が物売りやサファリツアーの客引きに声をかけてきたが、一番印象に残ったのはストリートチルドレンだ。日本でいえば幼稚園児ぐらいの子供たちが「ギブ・ミー・マネー」と次々話し掛けてくる。僕たち2人はお金をあげてしまったが、あとで馬場さんに聞いてから、お金はむやみに与えてはいけないということがわかった。なぜなら子供達は貰ったお金で麻薬やシンナー替わりに使う接着剤を買ったりするからだという。ひどい場合は親の命令で物乞いをさせられたり、マフィアのような組織へと繋がっていたりと、この地ではストリートチルドレンは深刻な社会問題となっているそうだ。お金を与えることが必ずしも問題を解決することには結びつかないのだと深く考えさせられた。
街には銃があふれていて、路上でうっかり写真などを撮っていると「オイ!今、私を撮っただろ!!」などといってカメラを脅し取られることもあるらしく、弱気な僕は街を歩くときは多少緊張した。

 六、赤い大地
翌日2泊3日の野生動物を観察するサファリ・ツアーに参加するため馬場さんとマサイ・マラ国立保護区へ出かけた。僕のお目当ては葉書で見た象とマサイ・マラに10頭しか生息せず乱獲がたたって世界中でもその数が激減しているサイだ。
  目的地への道中であらためて気がついた事、それは土の色だ。ここの土の色は限りなく赤に近い茶色で、日本の土とは全く異なった色をしている。車で2時間走り続けたころ一人で牛の世話をしているマサイ人をみかけた。よく見ると7、8歳ぐらいの子供でこちらが走る車の中から手を振ると彼も笑顔で愛敬よく手を振ってきた。マサイは最強の戦闘民族と言われるが、弓や槍を持った姿の少年はすでに勇敢な戦士のようだった。あの赤い衣装は文明を拒みこの赤い大地に独特の文化を継承し生き続ける彼らの象徴なのだろうか。
 
 マサイ・マラでの活動の拠点になるロッジのゲートに到着、手続きの為、車を停めていると何処からともなくマサイの女性達がネックレス、指輪等の装飾品を売りに来た。彼女らの周りには夥しい数のハエが飛び回り、手を差し出してくるたびたくさんのハエが車に入ってきた。「これはきつい。はやく窓を閉めよう!」と一瞬思ったが、剛にいれば剛に従えだ。こんな機会はそう無いので気持ちを切り替え、彼女たちの商談に乗ってみることにした。結局、最初は1000シリングだった首飾りが僕たちが出発する頃には50シリングに値下がっていた。

僕たちが宿泊に選んだロッジは一部屋ずつ独立したログハウスになっていて、敷地内には色とりどりのハイビスカス、ブーゲンビリアなどの奇麗な花が咲き乱れる美しい所だ。部屋の外にある椅子に座り本を読んでいるとバブーンや孔雀、小鳥たちがすぐ近くまで寄ってきた。

   七、大自然
  マサイ・マラ国立保護区は大阪府とほぼ同じ面積がありサファリカーで区内を自由に移動し動物を探す。どこまでも続く青い空、遥か遠く地平線まで見渡せる草原、その壮大な風景はただ驚くばかりだ。象・ライオンの親子、キリン、バブーン、そしてチーターなどを見つけたがどの動物ものびのびと暮らしている様にみえた。

 夜、ロッジで夕食を食べていると突然十数人のマサイ人達が現われ何が始まるのかとびっくりしたが、なにやらスワヒリ語で話した後踊りだした。どうやらマサイのダンスはこのロッジの名物らしい。「なーんだ。ちゃっかり彼らも商売しているな」と思ったがジャンプ力は凄いもので皆80センチは軽く跳び上がっていた。狩りなどをするにはこれくらいのバネが必要なのだなと感心、感心。
夜も更け寝床に着いた時、遠くからかちかちかち・・とカスタネットでも叩いているような不思議な音が響いてきた。「何処かの部族がお祈りでもしてるんかな」そう思いながら、いつのまにか眠ってしまった。

 二日目のサファリではハイエナ、チーターをみつけたあとしばらくしてヌーとシマウマの群れに遭遇した。ガイドによると普段より少ないそうだがそれにしても圧巻だ。その後タンザニアとの国境沿いにある沼地に行ってカバを観察。当たり前だが実際に見る動物達は写真で見るよりずっと大きいとあらためて感じた。しばらくして遠方で雲が現れ雨が降り出すのが見えた。通り雨のようで、雨雲がこっちにむかって移動してくる。僕らの上に雨を降らして通り過ぎた後、奇麗な虹が架かった。それを楽しむかのようにガゼル、イボイノシシ、マングースそして様々な種類の鳥たちが姿をみせる。僕はそこにいると地球の、生命のエネルギーを肌で感じるような気がした。いつまでも観ていたかった。

  もう帰る時間になり「サイだけはやはり見つからなかったな」と諦めかけた時、突然ガイドが「ライノ!ライノ!」と叫び、車の向きを変えた。ライノ(セロス)とは英語でサイのことだ。双眼鏡を覗き込むと大きな黒い動物が猛スピードで走りその後ろを数台のサファリカーが追いかけていた。僕らもそれに加わりカーチェイスさながらの迫力ある大追跡となった。必死に追ったがサイはもっと必死だったろう、結局逃げられた。残念ながら写真に収めることはできなかったがやるだけやったというすがすがしさが残った。もし手が届きそうな夢を寸前で取り逃がしたとしても全力で努力したから悔いはないと思えるような自分でありたい。雄大な自然と向き合ったとき、自分のあるべき姿が見えた気がした。

 その後はナイロビに帰りビーズ工場やイギリス街を観て歩き、ショッピングセンターで日本へ持って帰るお土産を買うなど2日間ゆっくり過ごした。郊外にある焼き肉屋に行ったがここがすごい。店に入るとカウンターに肉が骨付きでずらーっと並んでいて、ほしいものを選んで焼いてもらう。味は塩だけで肉は硬かったが美味い。夢中で肉にかじりつく。
馬場さんが「これって料理の原点やとおもわん?」と言ったが全くその通りだ。フランス料理も日本料理もずっと歴史をさかのぼれば、この国の料理にたどり着くのだろう。
     
   八、地上の楽園
 アフリカ滞在最終日をむかえ、馬場さん一家と車で、フラミンゴで有名なナクル湖へ出かけた。目的地に到着し、丘を上り見下ろすと大きな湖が広がっていた。湖の岸辺はその数200万羽と言われるフラミンゴで一面ピンク色に染まっており、思わず息を呑むその光景はまさに壮観だ。さらに岸まで下りてより近くで見ると数羽のペリカンも混じっていたがすごい数だ。しかしここは鳥と魚の腐ったような臭いであまり長くは居れないなと思った。ナクル湖を後にし車ですこし走るとそこには草原(湿原)が広がっていて、たくさんの鹿、鳥、ヌー、シマウマがのんびりと草を食べていた。うっすらと霧に包まれ日の光が差す風景はこの世の楽園という言葉が当てはまる美しさだった。このまるで映画のような美しいシーンを僕は一生忘れないだろう。 
     
 

 帰り道、車で走っている途中、大きなダチョウを見つけた。ゆっくり近よってみたが不思議と逃げる素振りが無い。3メートルぐらいに近付いたがそれでもこちらをジッと見つめているだけだ。「なんで動かんのやろう。」そう思った時ダチョウの足元に目をやるとそこには大きな5個の卵があり、かたくなにそれを守っているのだとわかった。母は強し、これ以上は近寄らないでおこう。

   九、帰国―旅の終わりに
 日本へ帰る朝、馬場さん一家が車で空港まで送ってくれた。再会を約束し別れ、手続きを済ませ出国審査へ。
税関でアメリカ人観光客の男性が2メートル以上はありそうな槍を持っている。
どうやらマサイ族の村で槍をお土産に買ったようだ。しかしいくらなんでもそれは持ち込めないだろうと思ったが彼は粘りに粘って交渉し、結局通行許可が出ていた。
うーん大丈夫なんだろうか?そして搭乗。飛行機に乗り込んでからわかったが、チケットには座席の指定が無い。驚いたことにどうやら自由席のようだ。

 同じ便に日本人が他に二人乗っていたので彼らと並んで座ることにした。銃撃の跡が生々しいイエメンを経由し、真夜中のキプロスへ到着。再出発の時刻になり飛行機の下まで移動したが何らかのトラブルだろうか、そのまま滑走路上で2時間程待つことになった。普通ならいらいらしただろうがここは異国の地、こんなハプニングさえもいい思い出になってしまう。夜空を今にも落ちてきそうな無数の星を眺めながら旅の仲間たちと話がはずんだ。
 すこし不安だったが無事出発し、モスクワに到着。空港のレストランで食事をしたが、ここのウェイトレスは恐かった。料理を注文してからかなり待ったので催促に行くと「シャラーップ!おとなしく待ってろ!」と怒鳴られておもわずテーブルまで逃げ帰った。おそらく社会主義にはサービスという仕事は存在しないのだろう。
しかし待ち時間が充分あったおかげで、居合わせていたいろんな国々の旅行者たちとと知り合い、話すことができた。
 日本への帰国便の出発を知らせるアナウンスが流れ彼らと握手し別れてから飛行機に乗り座席に腰を下ろし、目を閉じると旅の風景が次々と浮かんできた。短かったがいろんな国の人達と出会い、話ができ、充実した十一日間だった。

 十 、あれから五年、いま思う事
  馬場さんのおかげではじめて海外へ出て、大自然、発展途上国の抱える問題、社会主義国の一面などほんの少しだが世界を垣間見ることができたあの旅は少なからず僕のその後の人生に影響を与えてきた気がする。

 場所は違えどあの時ナイロビで食べた寿司のように心を和ませる、食べてよかったと言われるような、そんな料理を作っていきたいと思う。

 ケニア滞在期間を終え帰国後日本の大学で働いていた馬場さんから先日一通の電子メールが届いた。8月にまたケニアでの仕事があるのでナイロビに戻るという。世の中が変っても馬場さんの情熱は変わらないようで嬉しかった。

 最後に、僕自身また旅をする機会があれば体験する出来事の一瞬一瞬を大事に心にうけとめて帰ってきたい。その後、何度か海外へ一人旅に出かけたがその度に新しい発見があった。僕にとって旅とは未知なる文化、人々と出会える好機であり自分を見つめ直す手段であると言えると思う。
                                                        終わり
                                                       1998年10月
       
              お付き合い頂きありがとうございました。
                 

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