フランスの旅 7泊8日

 西洋料理、とりわけフランス料理に携わる人達にはいつかは必ず訪れてみたい場所がある。そう、フランスだ。その憧れの土地への行き方は人によって様々だ。旅行で行く人、日本の調理師学校で学び、フランスにある分校へ勉強に行く人、日本のレストランやホテルで働いて技術を習得後、本場へ渡り更なる修行をする人、中には日本での料理経験が全く無いままいきなりフランスに行き飛び込みでレストランを訪ね歩き、職場を得る人などさまざまだ。

 僕にとって初めてのフランス訪問は、調理師になって四年目の夏、会社が夏休みにと、連休をくれたので旅行という形で実現した

 フランス語は料理用語以外、全くわからないがヨーロッパなら英語でも何とか通じるだろうと思い、飛行機のチケットだけを購入し、泊まるところは向こうに行ってから決めることにした。

 旅行の計画を立てるため、ガイドブックを買った。パリのルーブル美術館やエッフェル塔、ブルターニュ地方にあるユネスコ世界遺産に指定される史跡モン・サン・ミッシェルそしてフランス中部にある小さな町・ルピュイなど行きたい所を選び、旅の予定表を作った。しかしこの旅行計画は、後に思わぬ出会いにより、大幅に変更することになる。
 「やはりせっかく行くのだから三ツ星レストランで食べてみたいな。」と思って調べたが何処のレストランも(夏季休業)と書いてある。そして「あ!しまった!」と思わず声を上げてしまった。フランスでは、とりわけパリの主なレストランは夏に長期休暇を取るのが普通で、僕がフランス旅行を予定している時期にはほとんどのレストランは閉まっているらしい。それを忘れていたとは我ながらうかつだったが今更休みを変更することはできない。とにかく行くことにした。

 1994年8月1日、伊丹空港発大韓航空のソウル経由パリ行きの飛行機に乗り僕の旅は始まった。

 隣の座席に日本人男性が居られたので「学生さんですか?」と声をかけてみると「いや、コックだよ。」という返事。聞いてみると田上さんとおっしゃるこの方は京都のフランス料理店で6年間働かれた後、店を辞めフランスへ修行に行くとの事で、すでにパリでの住居、働くお店も決まっているということだった。そして僕より1歳年上の彼との出会いにより僕の旅行プランは一変する。

 「じゃあ、君はなぜフランスへ?」と聞かれた僕はフランスへは旅行で行くこと、自分も調理師だということ、宿泊先を決めずに出てきたことを話すと、「えー!泊まる所も決めてないの?無茶するなー。同じ調理人だし何かの縁だよ。俺も一人だし、よかったらうちに泊まりなよ」と言ってくれた。こうして僕の滞在先はフランスに着く前に決まった。  

 パリに到着後、タクシーに乗り田上さんが住むことになるマンションに向かった。

 彼が生活の拠点にするマンションの一室は知りあいの調理師から紹介されたそうで、中に入ると部屋には数冊の料理本、フランス語の辞書、日本製の調味料や石鹸、シャンプーなどが置いてあり生活の匂いがした。

 日本からは大勢の料理人がフランスへ料理の修業に来るがほとんどの人達の最終的な目標は2ツ星、三ツ星のレストランで働くことで、そこにたどり着くべくチャンスを見つけてはより高いグレードの店へと移って行く。いわば多くの日本人がこの部屋を足がかりにフランス修行をスタートしたのだと思うと、自分もやる気が沸いてきた。

 その日の夜、近くのレストランで働いていた日本人のコックさんが「やあ、よく来たね!いっぱいやろうよ。」とワインとチーズを持ってやってきた。以前この部屋に住んでいた方の友人で荻野さんとおっしゃるこの方は、新たに日本からやってきた修行仲間に会いに来られたのだ。

 荻野さんは東京のレストランで10年勤めた後パリに来て三ヶ月になり、近くのビストロでシェフをしていた。まだこちらに来て間もないのに調理場を任されているということだけでもすごいと思ったが、さらに質の高い仕事がしたいため、暇を見つけては「もし空きがあれば働かせてください。」といった趣旨の手紙を書いて二ツ星、三つ星のレストランへ送っていると教えてくれた。

 お二人ともしっかりと目標を立てて頑張っているなあと感心。
僕などふらりと旅行に来ただけだ、と思うとなんだか恥ずかしくなった。

 荻野さんが自己紹介をした後、僕の方を向いて「しかし君はどうしてここに?」と聞いてくれたので田上さんが「飛行機で会ったんですよ。」と出会ったいきさつを説明してくれた。三人とも初対面なのだが話は弾み、ワインを片手に夜遅くまで話をした。

 荻野さんが「明日は僕仕事があるけど、よかったらお店に来なよ。調理場、見たいでしょ?」と誘ってくれたので、二人でお邪魔することになった。

 明くる朝、荻野さんが働くお店(サヴァラン)を訪ねた。小粋なビストロと言った感じのお店のオーナーは気さくな方で、僕達を調理場へ案内してくれた。

 はじめて見る本場フランスのキッチンはスープのいいにおいが立 ち込めていた。

 使い込まれたまな板、吊るされている鴨、大きな箱に入った色と りどりの野菜やハーブなど、見るものすべてが新鮮に感じられ、 夢中で写真を撮った。

 田上さんは二週間後に始まる仕事に備えフランスの厨房に慣れておくため、荻野さんの仕事を手伝うことになっていた。

僕は何をしようかと思ってキョロキョロしていたら荻野さんが「君、これとそこらにあるあまった物で昼ごはん作ってよ。」といって丸茹でされた鶏一羽をドンと目の前に置いた。当時の僕はすでに料理歴4年だったが、まだ鳥を捌いたことが無かったのであせった。これはどうしようかと悩んだがみっともなくて、できませんとも言えない。すると店のスタッフが「どんなのでもいいよ!」と言ってくれたので、思い切って鶏肉のシチューとポテトサラダを作った。

 緊張に手が震え、時間がかかってしまい、このときほど自分に
ふがいなさを感じたことは無かった。 

 こうして二日目はあっという間に過ぎた。      尊敬する荻野さんと

 次の日は荻野さんの仕事が休みだったので三人でパリの街を歩いた。凱旋門を見たり、カフェに立ち寄ったり、公園へ行ったりとゆったりとした一日を過ごした。フランスの人たちはワインを水代わりに飲むのでお酒に強いと聞いていたが本当だと思った。街中いたる所のカフェでアルコール類を販売しているので、朝からカフェでワインを飲み、昼食、夜食の際はもちろん、クレープ屋さんではシードル(リンゴ酒)、またカフェでビールと僕も同じように飲んでフラフラだった。その晩もまた部屋で井戸端会議だ。近くに住んでいた荻野さんの友人二人も参加され、フランス料理のこと、フランスのことそして日本のことなど話は尽きなかった。日本とフランスで厳しい修行をしてきた人達なのにそんなことは全く感じさせない。やりたいことが精一杯できる、そんな充実感がひしひしと伝わってきた。

 三日目の朝早く、僕は旅の計画をひとつだけでも実現すべく、バス地下鉄を乗り継ぎ、パリ・リヨン駅に向かった。途中、間違って反対方向へ向かう地下鉄に乗ってしまうハプニングがあったが無事ヨーロッパ最速の列車TGXに乗ることができフランス中部の都市、リヨンで列車を乗り継ぎサンテ・ティエンヌ駅へ到着。そこで次に乗り換えるローカル列車が来るのを待った。 
            
                                  世界最速列車 TGVチケット

 時刻表を見ると、あと2時間待たなければならなかった。僕はホームのベンチに座り、ガイドブックを開いて1枚の写真に見入っていた。それは巨大な岩山の上に立っている古いチャペルなのだがまるで空中に浮かんでいるように見え、なんとも神秘的だった。

初めてサン・ミッシェル・デギレ礼拝堂という名のこの教会の写真を見たときから、
フランスへ行くことができたらこの目で見てみたい!と強く心に決めていた。

 そんなことを思い出しながら、しばらく電車を待っていた。
ふと我に帰ると、隣に座っていた年配の女性がこっちをじっと見ている。
そういえばこの駅に着いた頃から、ほかにアジア人風の旅行者を見かけないので
おそらくこのあたりでは珍しいのだろう。
人々は僕とすれ違うたびこちらを横目に見ながらと通りすぎていた。

 などと考えていたら女性と目が合った。彼女は口を開き言った。「○○○○○?。」
うおっ、やばい!フランス語だ。なんと言われたのか分からなかったので「アイ・ベッグ    ユア・パードン?今なんと言われましたか?」と聞いてみたが通じないらしい。

 よし、それではと僕はフランス語の単語集をリュックから取り出し、1語ずつ調べながら身振り手振りをまじえて、フランス語で同じ意味の言葉を話してみた。するとお婆ちゃんが今度はゆっくりとした口調で言ってくれたので理解できた。「何処から来たの?」と尋ねていたのだ。僕は「日本から来ました。次の電車でルピュイに行きます。」と答えて、「お婆ちゃんは近くに住んでるの?」と聞いてみた。そのまま会話は続き、お婆ちゃんはやさしくフランス語を教えてくれた。

 見知らぬ土地での人との出会いも旅の醍醐味だと思う。お婆ちゃんは結局予定していた電車をわざと乗り過ごして話に付き合ってくれた。僕のことを遠くから訪ねてきた孫のように感じたのだろうか。

 楽しかった時間はあっという間に過ぎ出発の時刻になった。僕は列車に乗り、「ありがとう、フランス語の先生、元気でね。」とお礼を言うと「ボン・ボヤージュ、良い旅を」と、お婆ちゃんはあめ玉を一粒くれた。 列車が動きだし、進むにつれホームが遠ざかっていく。お婆ちゃんは見えなくなるまで手を振ってくれた。

 雲一つない青空の下、山々の谷間をぬうように流れる川に沿って列車はカタコトと音を立てながら優雅に進んでいく。いつのまにか僕は眠ってしまっていた。どれくらい寝てしまったのか、目がさめると同じ車両に乗っていた子供たちが窓の外を指差してはしゃいでいて、親たちはその方角を向きカメラを構えている。僕も身を乗り出して見てみると窓の外に街が見え、赤い屋根の家々が密集している中にひときわ目立って岩山がそびえ立っている。写真で見たサン・ミッシェル・デギレ教会だ。少し離れたところに同じように岩山がそびえ立ち、そちらには巨大な聖母マリアの像が立っている。

 電車は二つの岩山を360度グルッと乗客に見せるように、大きな円を描きながら町を一周しながら駅へと入っていく。

 ホームに降り立った僕は帰りの列車の時刻を確かめた後、教会に向かった。行ってみると大勢の観光客がいて列をつくって岩山の頂上へと続く階段を登り、教会へと向かっていく。僕もその列に加わり、1歩ずつ階段を上がり、目的地へ到達した。中は薄暗く、外観よりずっとせまく感じられた。古そうなキャンドル、聖書などが置いてあり分厚い芳名録に名前と住所を書き込んだ。不思議だがそのとき僕はなぜか、ここに名前を書き込むためにはるばる日本から来たような、そんな気がした。

 教会をあとにし駅に戻ると地元の大学の教授をしているという方が英語で話し掛けてきて、あそこは世界最古の寺院だと教えてくれた。あんな山の上にあるのに、地ならしなど全くされていなくて、ただ上に教会を立てただけだそうだ。

フランス人はプライドが高く英語を知っていてもフランス語しか話さないとよく言われるが、それは違うということを僕はこの旅で確信した。

 再びリヨンの駅に戻った僕はそこで宿を探して一晩泊まってパリへ戻るつもりだったが、この駅からフランス東部のドイツとの国境に面した街、ストラスブールへと寝台列車が出ていることを知った。迷ったが、せっかく来たのだし寝台列車に乗ったことが無かったので面白そうだと思い、行ってみることにした。

 列車を待つ間、腹ごしらえをしようと駅の近くのカフェに入りエッグサンドウィッチを注文した。日本で食べるような食パンにたまごと野菜をはさんだ物を想像していたが、お店の人が運んできた物にはなんとバケットパン一本の上に野菜とゆで卵がどさっと乗っかっていた。
思わず、「こんなん食えるか〜っ」と心で叫んだ。
これがまたおそろしく硬く、食べるのに一時間かかった。当たり前ながら
日本でもフランスでもいいお店、悪いお店には差があるなと実感した。

 寝台列車のシートはゆったりと広くてぐっすり眠ることができた。ストラスブールに着き、さっそく街のあちこちを見て歩いた。まずは欧州会議場を通る。EUの会議をする場所だけあって会場の前にはいろんな国々の国旗が掲揚されていた。次に荘厳な雰囲気をかもし出す大聖堂を見学後、運河に浮かぶ遊覧船に乗り白鳥とランデブー。その後レストランで昼食にシュークルートを食べてから、バスでドイツとの国境へ行ってみた。 

                 
                欧州会議所            

 バスから降りて少し歩くと橋が架かっていた。川に隔てられた向こう側がドイツだ。この街はかつてドイツ領だったらしいがこんなに近いのだからそうなってもおかしくはないと思った。隣国とは海で隔てられている日本人の僕にとっては、歩いてわたれる国境とはなんとも不思議な気がした。

 この街では何度も道に迷い、そのたびに行き交う人に尋ねたが、皆親切に教えてくれてとてもありがたかった。自分も日本に帰ってもし人に道を聞かれたら丁寧に教えてあげたいと思った。  ドイツ国境

 夜遅くパリに戻ったとき、荻野さん、田上さんが「よく無事に戻ったねー。お帰り!」と、短い旅行話を聞いてくれたときはうれしかった。ほんの数日前出会ったばかりの二人なのにずっと何年も前からの知り合いのような気がしていた。

 その後二日間はパリでのんびり暮らし、荻野さん、田上さんと共に行動した。フランス料理店はもちろん、居酒屋やレストラン、地中海料理やクレープ専門店、中華料理などあらゆる種類の料理を楽しむことができた。ほんとにどこのお店の料理も美味しかったので「さすが美食の国、どんな料理も美味しいですね。」と言うと、「ここには様々な国から移住してきた人達がそれぞれ自分の国の料理を出すレストランを経営しているから、本格的な料理が堪能できるんだ。」とのこと。
う〜ん、なるほど!

いまや世界の共通語?       青空市場にて              田上さんとクレープ屋さんで 

 こうしてフランスでの七日間は夢のように過ぎた。帰国の日、荻野さんは仕事だったので挨拶をしにお店に立ち寄り、握手をして別れた。

 田上さんは空港まで送ってくれた。もし日本人の田上さんと出会っていなければ、こんなにフランスという国を知ることは無かっただろうし、充実した旅行にならなかっただろう。

 チェックインを済ませシャルル・ド・ゴール空港のロビーの椅子に座って、ガラス越しに見える帰国便を眺めていると、旅行中の出来事が次々と思い浮かんできた。

 パリのオープンテラスで語らう人々、街中のあちこちにあるユーモラスな建造物、何世紀も前からフランスの人々の心を支え続けた教会、遠く離れた異国の地で頑張っていた日本人シェフ達・・・。

「せっかく知り合ったんだし、今俺が働いてるところ、空きがあるから紹介しようか?」
「おう、それいいね!」
「そうだよ、こんなチャンスめったに無いよ。このままこっちに残って修行しなよ。」
と皆で言ってくださったが僕は「そんな〜っ、帰らないと!それに度胸ないっすよ!
」と返すのが精一杯で、皆うろたえる僕の様子を見て笑った。

 パリのアパートの一室でワインとチーズを片手に、井戸端会議は夜明けまで続いた。

 たった八日間という短い旅だったが、今でも時々思い出す。 
                          


はじめに食材があり、それを世界各国の人々がそれぞれ自国の風土にあわせた調理方法をあみだし、歴史と共に発展させてきた。
日本料理、寿司、中華料理、イタリアン、フレンチ等
それぞれ特徴のある食文化が培われてきたのはそういった
歴史の証明だと思う。
そして海外へ修行へ出た人たちも日本の食文化の発展に貢献してきたのだろう。



フランス旅行の一年後僕は会社を辞め、カナダのトロントへ行きレストランとホテルで働いたが今考えると、それはあの旅の続きだったのかもしれない。

終わり
1998年 12月 筆

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