モントリオールユースからの景色
運河も凍る冬のケベックシティ

          episode 1  〜レストランで働く〜


                   

  

 1995年、1月18日、午後9時頃にトロントに到着し
ダウンタウンにあるユースホステルへバスで移動。
バス停を降りたところで、場所が分からずうろうろしているとひげを蓄えた大柄の男性が話しかけてきた。

雪が降り続く中、重たそうにスーツケース&リュックを引きずる僕を不思議に思ったので声をかけてくれたそうだ。日本から来た旨を伝えると「WOW!地震は大丈夫だったか!?」と驚き、荷物をユースまで運んでくれた。

それ以後、一週間ほどユースに滞在。

とりあえず仕事だ!とばかりに、働かせてもらえる
フランス料理店を探すため、フランス語圏のケベック州へ移動することにした。
選んだ場所はカナダで3番目の大都市モントリオール。


雪で覆われた近代的なモントリオールの街の景色はとても美しく
素晴らしかった。
しかし体が凍りつくような寒さだ。街を歩いて
買い物をしたりフランス料理店で食べたりして
5日間滞在。

その後フランス語圏の古都ケベックシティへ。
−16℃・・・・雪で覆われた町はまさに銀世界。
行ったことは無かったが写真やテレビの映像で見た北海道の景色に似ていた。
カナダに来たのだなーと感慨に浸った。が本当に凍りつくような寒さで
顔が寒さで痛くなった。
しかし生まれて初めて見たダイアモンドダストは神秘的で綺麗だった。

途中で道を尋ねたりしたがほとんどの人たちがフランス語を話すため、言葉は通じなかった。
それでも異国から来た自分に街の人たちは親切だった。
ここは比較的小さな町で1日滞在しただけで町をほぼ見て回ることができたので
モントリオールに戻った。

どちらの街でも仕事を探そうと思っていたが、1月のケベック州はー5℃〜−16℃と寒く、フランス語も通じないため(と言うよりできない)ため、結局トロントへ帰ることにした。

 トロントに戻ってすぐ、ユースホステルで同じ時期にカナダに来られていたタケさんと出会い、心強かった。タケさんの幼なじみのタカさんとも知り合うことができ、よく三人で集まり話をしたり、街を散策した。このときからすでに自分にとってトロントは僕にとってのカナダでの拠点になっていたのだと思う。

しかしいつまでもユースに居るわけにはいかない。住所がなければ職に就くことが出来ないからだ。
とにかく、まずは住居を探そうと決め図書館へ行き賃貸情報で見つけた市内の家の一室を借りた。

カナダでは一般家庭の空いている部屋を人に貸し出すことも多い。僕がカナダで最初に借りた部屋は、アフリカ系移民家族が住む一軒家の二階だ。
地下と一階は家主さん家族が住んでいて二階には部屋が三つあり、カナダ人(名前忘れました)、イタリア系カナダ人のジャン、それに僕の三人がそれぞれ借りて住んでいた。同じ階に三人が共同で使うキッチンがあり自由に使用できた。

隣人の“ジャン”は陽気なイタリア人で、10数年前にカナダ人の奥さんと結婚し、カナダに移住したが、数年前に奥さんを交通事故で亡くしていた。
彼には“リタ”という名の娘さんがいて普段は近くにすむ親戚にあずけていて、毎週日曜日に会いに行っていた。当時のカナダは失業率10%で、ジャンは勤めていた建設会社がつぶれたらしく、日雇いの引越し業者に登録して、仕事があれば出かけるという生活をしていた。

彼に連れられ、仕事を探しに引っ越し業者の事務所にいったことがある。朝の6時に出かけたのだが着いてみるとすでに100人ほどの行列ができていてジャンは「今日はまたえらく多いな。こっちまで仕事は周ってこないだろう」と言ったが、その通りで、結局その日は1時間ほど並んで待ったが駄目だった。

彼はよく「湾岸戦争で一気に景気が悪くなった。俺がここに来た頃はいくらでも仕事があったのに・・。」と嘆いていた。「Life is Tough 人生はきびしい。」というのが彼の口癖だった。

この部屋に住んでいる間は彼の勧めで食費を折半することにし、時々一緒に買出しに行きご飯を作って食べた。あるときは彼がトマトシチューを作り、僕はうどんを作ったりした。何せ二人とも失業中の身、暇さえあればトランプをしたり、お互いの国の話をして時間をつぶした。

 この二月、三月は昼は図書館へ行くか、街へ出て仕事を探し、夜は無料(!)の英語学校に通うという生活が続いた。

 カナダは移民の受け入れに寛大で、海外から移住してきた人々のために無料英語講習が夜の小学校の教室などで行われていた。生徒のなかには長引く内戦で母国を追われ、親類を頼ってカナダに亡命してきたアンゴラ、スリランカ、ソマリア、エチオピアなどの発展途上国出身の人々が大勢いた。授業を受けるための参加資格などは特に必要無い。
カナダでの生活や言葉のアクセントになれるため、僕も週2,3回通うことにした。

クラスではベトナム出身のシートレイン、ソマリア出身のマイケルと僕の三人で並んで授業を受けた。 シートレインはすでにカナダの移住権を持っていて、「今度の就職が決まったらベトナムにいる婚約者を呼ぶんだ。」と張り切って勉強していた。
マイケルに「自分の国が恋しくない?」と聞いたことがある。彼は「
They Are Killing Each other、危なくて帰れないよ。まだ身内がソマリア国内に残っているので心配だけど。」と話していた。

     メトロポリタンシティ    トロント

   
夜は学校に通いながら、昼は職場探しでレストランを回ったが、仕事はなかなか見つからず、トロントで生活して3週間が過ぎた頃には履歴書を配って歩いたレストランの数は19件になった。最初は新聞などの求人広告をみて見つけた店に行って応募していたのだが、カナダでの職歴の無い自分を信用してくれる店があるはずも無く、ことごとく断られた。 これじゃだめだと、今度は街を散策し忙しそうな店を手当たりしだい訪ねては、
履歴書を渡して歩いた。

「あかん・・。やはり甘かったかな。」と思いはじめていた頃、図書館に行った帰り道に’’jaques bistro du purk“というフランス料理店の看板を見つけた。

一階には洋服店があり、そのレストランは2階にあった。

 もうこの頃はだめでもともとと言う感じがあったので「とにかく当たってみよう」と店への階段を上がり、ドアを明けた。 かわいくこじんまりとした店内だが清潔そうな感じだ。

 「Hello!シェフはおられますか?」といってみたが返事がない。しばらくすると奥の調理場からコック服を着た眼鏡をかけた小柄な男性が出てきた。「may T help You?」といった彼のアクセントでフランス人だなと気ずいた。

 僕は駄目もとで「シェフですね?あのー、僕、日本から来ました。コックの仕事を探してるのですが空きはありませんか?」ともう何度も使ったフレーズで伺ってみた。 すると彼は「そう、はるばるジャポンから!うちの店はみての通り小さいので人は雇えないけど、まあ座っていって。」と僕を席に座らせ、コーヒーを出してくれた。本当に心にしみるコーヒーの味と香りだった。

 彼はジャックという名のフランス人で、30年前にカナダに来て、トロントのホテル数件で10年働いた後、独立して現在のお店を出したと言うことを教えてくれた。

 しばらく日本のことやフランスのこと、トロントに来てからずっと仕事を探して
いろんな店を訪ね歩いていることなどを話した。「そうだなあ、マッセルズ・ビストロに行ってごらん。あそこは大きいし、いつも忙しく人手不足と聞いてるよ。」と住所を書いた紙を渡してくれた。

 お礼を言って、早速教えてもらったお店に行ってみた。着いてみるとそこは一階がカジュアルで居酒屋的な ル・サントロぺ、二階がフォーマルなフレンチ、マッセルズ・ビストロという2階建てのレストランだった。

 店の前で大きく一呼吸し、ドアに手をかけた。

一階の店のドアを開けると中にいたウェイターが「May T Help You?」と声をかけてくれたので「シェフはいますか?仕事を探しているのですが・・。」と訊いてみると「二階の調理場にいるよ。そこの階段をあがって突き当たり」と教えてくれた。

 言われた通りあがって見ると調理場に二人のコック服を着た男性二人がなにやらスケジュール表らしきものを見ながら話し合いをしていた。

 「こんにちわ、僕はコックですが仕事を探しています。ジャックさんにここを教えていただきましたが働かせてもらえませんか?」と聞いてみた。

二人は突然現れた僕をちらっと横目で見てからなにやらフランス語で話し合った後、こちらを振り向き、何処からきたのか、料理歴は、労働許可書を持ってるかなどを尋ねてきた。

僕がすべての質問に答えると二人はまた向かい合いひそひそと話し合った。

 しばらくして、のちに僕のボスとなるシェフ、ジョンジャックが
「明日の昼に来て、試しに4時間働いてみてくれ。
もし使えそうなら雇わせてもらう。」と言った。

よっしゃー!これが最後のチャンスだ!と家に帰ってからは、
日本から持ってきた包丁を入念に研いだ。

そうだ!店を教えてくれたジャックにお礼を言わなければ!。と再びジャックの店へ。
ジャックに事の始終を話すと彼も「よかったねー!」と本当に喜んでくれた。

 僕はジャックに「あのー、今日一日、ここで働かしてもらえませんか?カナダの調理場の雰囲気を知りたいので・・」と頼んでみた。彼は「ここはあそこよりずっとせまいから参考になるか分からんよ。」と言いながらも快く受け入れてくれた。

彼の店は普段は調理に一人、洗い場兼仕込み係り一人、ホール二名の計四人が働いていて、昼間は別の料理人を雇ってジャックは表のウエイターをやり、夜は交代して調理場に入り、遅番のウェイターがきてホールを担当するというシステムだ。

 一日一緒に仕事をさせてもらって、彼は朝から晩までずっと働き、しかも仕事が本当に丁寧で、お店もよくはやっている事がわかった。

オーダーストップのあと、掃除が終わると、誰もいなくなった客席に僕を座らせ、コーヒーとデザートを出してくれた。そして彼も向かいに座り、「カナダでの初仕事に乾杯しよう。明日から頑張りや!」とグラスにワインを注いだ。もう感謝の言葉も見つからず、ワインをいただきながら、この人は僕にとっての生涯の師匠だな・・。と思った。

 帰りの地下鉄で今日一日の出来事、カナダに来てからの出来事を思い出し感慨にふけりながら一人でニヤついていたが明日は頑張らねば!と気持ちを切り替えた。

 当日、指定された時間の30分前にマッセルズ・ビストロ(2階)の調理場に入った。ジョンジャックは緊張している僕を見て、自分の両肩を上下に揺すってみせ「リラックス、ok?」とやさしく声をかけてくれた。

そして盛り付け台を挟んだ向こう側の洗い場に向かって、「プシュパ!教えてやれ」と言うと洗い場兼、仕込み係をしているスリランカ出身の人物が大きなダンボール箱一杯!に入った大量のバジルの束を持ってきた。

彼は一束を手にとり、葉の部分を切り落とし、それを良く洗って水を切り、リードペーパーを敷いたパイレッシュに入れて見せた。彼は「
See?できるか?素早くな。」と箱を渡した。僕が急いでその仕事を終わらせるとものすごいバジルの香りが調理場に充満していた。次にポロねぎの束が渡され、プシュパが少しせん切りにして見せた。

        スリランカ出身のナイスガイ プシュパと

僕はよし、ここだ!とばかりに前日に研いできた包丁を取り出した。 それを見ていたウェイターのヴィクトールとムスタファが「ウォウ!!クロサワ!ニンジャ!」とはしゃぎ出した。シェフが「ちょっと見せて」と包丁を手に取り、光にかかげたり、指を刃に当てたりして刃先を確かめる。「いい包丁だ。これは俺がもらう。」とギャグを一言。

そのあと店にある包丁を手に取り「これは只の鉄くずだ。」といった。鉄くず?そんなに切れないのかと思ったが、その訳は後から分かった。

レストランで使われていたのはレンタル包丁で、業者が二週間に一度、良く研いだ包丁を持ってきて、お店で使っていた刃先の切れなくなった包丁と交換していく。 交換したての包丁は良く切れるのだが、それも最初の3日間ぐらいですぐに切れなくなってしまうのだった。

 その後もドレッシング作り、イチゴのデザートなどの仕込をしてアッという間に四時間が過ぎた。そしてジョンジャックが「よし、明日から来てくれ。採用だ。今からオーナーに会わせるから」といってくれた。そのとき本当は飛び上がるほどうれしかったが自重した。

彼に連れられ
3階に上がった。その階には仕込みをする部屋と大きな冷蔵庫、
それに事務所があった。事務所の戸をノックし、ジョンジャックが僕をオーナーに紹介した。
 オーナーはファビヤンというフランス人で背が高く俳優の
ニコラス・ケイジに似ていた。書類にサインし、採用が決まった。

 二階に戻り今度はプシュパが二階、一階の隅々まで案内してくれ、それぞれのレストランで
働くスタッフ10数名に紹介してくれた。

 こうして僕のレストランでの修行が始まった。
次の日も同じように働き、シェフはギャグを飛ばしとてもやさしく、和やかな雰囲気で一日を終えた。

                    

                      ダイナミックに盛り付けられる料理

 しかし3日目にシェフの態度が豹変した!!
僕が朝、野菜の切り物をしているとそばで見ていたジョンジャックが突然「ノー!!!遅い!なんでそんなに下手なんだっ!」と怒鳴った。

僕は一瞬、冗談をいってるのかなと彼の顔をみたら顔面は真っ赤になり目が釣りあがっている。どうやら本気で怒っているらしい。そして包丁を取り上げ、「こうだ!See!!わかったか」とざくざく切って見せた。僕はその通りやってみたがまだ横で叫びながら怒っている。

 僕は恐怖におののきながら、今日は機嫌が悪いのだろうか?と平静を保ちながら、必至で働いた。 盛り付けをしても全部やり直されたり、テーブル番号をフランス語で言われ、理解できなかったら怒鳴られたりと、一日中怒られっぱなしだった。
帰りの地下鉄に乗りながら、今日はたまたま虫の居所が悪かったのだろう・・と自分に言い聞かせながら家路に着いた。

 しかし翌日、そのまた翌日・・・とずっとそんな状態が続いた。

あまりに厳しいので、同僚のジャヤ、プシュパ、ラジャが集まっていたときに聞いてみた。

彼らの話によるとジョンジャックはいつもそんな調子で怒りちらすので、長続きするコックはいないと言うことだった。 「やられた!そういうことか。」と思ったが、ほかのスタッフたちはそういった状況を知っていたので、僕には丁寧に接してくれていた。

 自分にはここしかないのだ、という気持ちになっていたので、とにかくできるだけここで働こうと決めた。

働き始めてからは帰宅するのが遅くなった。ある晩、家に帰ってから暖かいシャワーを浴びて、シャンプーで頭を洗い始めた時、突然シャワーのお湯が水に変った。外は零下の気温なので水は本当に冷たかった。
「ぐおぉぉぉぉっ」と思わず声が出たがどうにもならない。歯をがちがち震わせながら何とかシャンプーを洗い落とし、寝床についた。
翌日、家主さんに聞いてみると、節約のため夜中の12時にはガスを止めるという方針だそうで、どうしようもない。僕の仕事はいつも夜遅いのでこれでは耐えられない・・・
やむなく引っ越すことにした。

新聞・雑誌をみたり、町を歩いて貸し部屋の物件を探したが、日本語新聞を見ていて
職場まで20分でいける「これだ!」というのを見つけた。
新しく引っ越したのは二階建のアパートで、オーナーは台湾出身の方だった。

一階には部屋がひとつとキッチン、二階には部屋が三つあり、それぞれの部屋の住民は自由にキッチンを使うことができた。
 ここでは同じ時期に二階の隣の部屋に入居してきたユリさんと友人のミユキさんと知り合うことができた。もう一つの二階の部屋には台湾の学生、IVYがいて、下の階には同じく台湾の学生Cheminが住んでいた。 彼らとはキッチンで会うたび良く話をした。

 店で働いてひと月ほどたったある日、いつも通り出勤して仕事をしていたら、何か焦げ臭い・・。オーブンを開けてみるとパイが真っ黒になっていた。それを取り出してテーブルの上に置いていたら、ジョンジャックが帰ってきて、「シィィィィット!!」と叫び、お前が見てないからだと怒り出した。
 僕は身に覚えがないことなので、いや、俺じゃない!と言い返したのが彼の逆鱗に触れ、彼は自分の顔を僕の鼻先まで近ずけ、「Who do You think You Are?」と言い放ち、其の後もずっと機嫌が悪い。とにかく僕のボスなので従うしかないと思い、それ以後は逆らうのはやめた。

 彼は店の総料理長だったが普段は二階で働いていた。一方、一階のシェフはフランシスと言う人だったが、オーナーとうまが合わず一方的に解雇されてしまった。フランシスの次に一階のサントロぺのシェフとして雇われたのはマッセルと言う同じくフランス人だ。彼は良くギャグを飛ばす明るい性格でしばらく続いた。

 調理場では忙しい時間になると、コックもウェイターもあわただしくなり、(これは日本のレストランの調理場でも同じですが) ○ァーック!ジーザス!シーット、メルド、○△×◆☆・・!など英語、フランス語のひどいスラングが飛び交い混乱状態に陥る。 最初は戸惑ったが数ヶ月後にはなれてきて、大概の仕事はできるようになった。休憩時間には店のフランス人スタッフに質問したり、休日に図書館でフランス語のテープを聴いたりしていくうちにフランス語のオーダーも分かるようになった。    

  ジャヤ&マッセル 

 八月、トロントで毎年恒例のオクトーバー・フェスタが開催された。 これは夏祭りのような催しで三日間、港では花火が打ち上げられ、街の主要道路は歩行者天国になり、トロントの主なレストランが屋台をだす、街を挙げて行われるイベントだ。

 観光地の真ん中にあるうちの店はタルト・オー・シトロン(レモンパイ)とクレープシュゼットが呼び物だった。この期間うちの店は一日約千個のパイを売り上げたが、お店のほうも常にお客さんで一杯だったので、クレープとパイの仕込みは早朝と店の営業が終わった夜にしかできず、この三日間はめちゃくちゃに忙しかった。

 自分自身は始発で職場に出て、パイを焼き、店が閉店するととまたパイを焼き、終電で家に帰った。三日間店では一食もできず、食事はといえば寝る前にスナック菓子をバリバリ食べる夜食だけだった。本当にきつく、カナダに来た頃から比べるとこの時期には体重が6キロ減っていた。

夏のトロントは暑い。 ちょうど大阪の夏と同じくらいの気温だ。観光地に位置するMassel’s Bistoro は夏休みの期間、大いに賑わっていたが、よりによってそんな忙しい最中、調理場のクーラーが壊れてしまった!!

 調理場には裏口があり、そこから一階のLe Santropesのパティオ(テラス)へと階段で降りれるようになっている。
その扉を開け放していたが風が入らず、ガス台から立ち上がる熱気もあり、仕事をしていると汗が滝のように流れ、
コック達はクビにタオルを巻いてフライパンを振った。

 ランチタイムにウェイターが 「OKI,ラ・ターブル、トレーズ(13番)シルトゥプレ!」   僕 「ウィ!ムッシュ!!ダコーッ」
とオーダーが通り、 そのテーブルの料理の仕上げをしているとき突然、首筋にズッキーーーン!と激痛が走った。僕が「ウギャッ!」と思わず声をあげるとみんなが僕を見たが、そのまま外へ飛び去る一点を目で追い続けた。それはかなり大きな蜂だった・・。

 「イッターーーーーッ」と痛がっているとジョンジャックが 「Don’t move!うごくな」と僕の首筋に噛み付き、刺されたところを吸い上げ、ぺっ とはき捨てた。「毒を捨てたから多分大丈夫だ。ワハハハ」と笑っていた。
 実は彼はいい人なのだな、と思った。
 その後、プシュパがコーヒーの粉を持ってきて、蜂に刺された痕の残る、首の部分に擦り付けた。彼曰く、スリランカでは擦り傷などにもコーヒー粉を塗りつけて消毒するそうだ。(要確認・・)


 店で働いて半年、すでにコックの中では僕はジョンジャックに次ぐ古株になっていた。ここはとにかく観光地、忙しいお店でとにかくスピードが要求される職場だった。
 ジョンジャックのはげしい気性もあり、皆すぐやめていくかクビになってしまう。
しかし失業率が高いとは雇用する側としては有利なようで、
次から次へと新しい人が仕事を求めてやってきた。

          

                         ル・サントロぺにて

僕は二階でジョンジャックの補佐をしたり、一階でシェフの代理をしたり、新しく次々やってくる仕込場やコックの人たちに仕事を教えたりとフル回転で働いた。
とにかくジョンジャックの言うとおり忠実に働いていたので彼には好かれていたようだった。しかし僕にとっては一階で働くほうが自由にできて好きだった。

従業員の食事はコックが作るのだが、あるときプシュパがあれこれ贅沢を言うのでしばらく口論になった。

僕は頭に血が上り、まな板をバン!とたたき、「じゃあ自分で作れよ!!」と怒鳴ってしまった。プシュパもカッと来たらしく大きな胸板をこちらにぶつけてきたが、様子を見ていたジャヤとラジャがわって入りその場を取りまとめた。プシュパは「
This Guy is Crazy」と捨て台詞を残し、帰っていった。

 その夜は後味が悪く、けんかしたことを後悔した。

翌日、なんと言って謝ろうかと思いながら出勤したが、彼と眼が会うと向こうから誤ってきた。僕もすまなかったと誤ると彼は手を差し出し、「OKI,Now,We have friendship eh?」と笑った。

九月ごろだったか、新しくコックとしてカナダ人が採用された。が
彼は絶対残業はしない主義と自分で決め付けていた。

金曜日の夜、満席のお客さんを残して彼は「じゃあ、後頼みます。俺、時間なんで。」
と突然帰ってしまった。
調理場に残った僕とプシュパで約
50食分を作り上げ、事なきを得た。
忙しかったがこのときは本当に充実感があったし、自分の仕事に自信をつけた。
翌日、スタッフからこのことが伝わり、オーナーの逆鱗に触れ
新入りシェフは即解雇された。

この頃は店が終わると店の生ビールを只で飲んでいたが、いつもプシュパと僕は店の掃除をしながら
最後まで残って飲んでいた。
(数ヵ月後、オーナーの一声でビールの振る舞いは禁止になってしまった。考えてみれば当然かも)

 ある晩、仕事帰りの地下鉄のホームのベンチで座って本を読みながら電車を待っていた。隣のベンチには長いあごひげを蓄えたヒッピー風の男性が横になって寝ている。しばらくして構内のスピーカーから放送が流れた。「そこに座っている男性、スミマセンが横で寝ている男性をチェックしてください。」と言ったことを話しているようだ。

まさか僕に向かって言っているとは思わなかったので、そのまま本を読んでいるとまたも放送が!「そこの、本を読んでいる君!君だよ!」

  ん?俺か?と気付き、回りをきょろきょろ見回すとビデオカメラが設置されていたのでそちらを向きながら自分で自分を指差してみた。

するとびっくり「そう!君だ!横に寝ている男性が息をしているかどうか、一度起こしてみてくれ!」との声がスピーカーから・・。

僕は仕方が無いので恐る恐る彼の体を揺すってみたがうんともすんとも言わない。
しかし良く耳を澄ますとスースーといびきをかいていた。 僕はテレビカメラに向き直り、そばにあったボタンを押しながら「looks like he is sleeping 寝てるみたいやで!」と言うとスピーカーから「サンキュー!」と帰ってきた。

  何とお気楽な、そして大雑把な駅員。
もしこれが日本なら、間違いなく駅員が直接調べにくるだろう。ある意味、ほんとにカナダ的だなと思った。
そういえばトロントの地下鉄の運転手は皆私服で、その上に地下鉄の印が入ったジャンバーを着ているだけだ。
日本とカナダの文化の違いが見て取れる面白い経験だった。

       二階建レストラン  ル・サントロぺ&マッセルズ・ビストロ        

           第二章へ  続く          カナダ トップへ戻る